
ノーラン作品の“リアル”はどこから来るのか〜『インセプション』のコマ運動と『インターステラー』の「1時間が7年」を物理学者に聞いてみた〜
2026,09.07
Fact Check Lab編集部
世の中で話題になっている情報のみならず、生成AIの精度やハルシネーションの検証・分析を行う編集部。誤情報は、意図的な嘘だけでなく、事実の一部が伝わる過程で欠け落ちたり、文脈から切り離されたりすることでも生まれる。だからこそ、疑うことよりも確かめることを大切にする。不偏不党の精神で発信元をたどり、一次情報にあたる。
『インターステラー』『TENET テネット』など、数々のSF作品を手がけてきたクリストファー・ノーラン(以下、ノーラン)。CGで済ませずトウモロコシ畑を実際に育て、本物のジャンボ機を建物に突入させるなど、画面の“実在感”を徹底して追い込む監督として知られています。
ところが、どれほど現実らしく見えても、描かれているのはSFです。では、ノーラン作品の「リアル」はどこまで物理として本当で、どこからがフィクションなのでしょうか。
そこで、『TENET テネット』で字幕の科学監修を務めた物理学者・山崎詩郎先生に、ノーラン作品の“リアル”の正体を聞いてみました。本記事では、『インセプション』のコマと『インターステラー』の時間を手がかりに、フィクションを支える物理をたどります。
※ この記事は、『インセプション』『インターステラー』の終盤の内容を含みます。
取材対象プロフィール

山崎 詩郎(やまざき・しろう)/東京科学大学 理学院 物理学系 助教
専門分野:走査型プローブ顕微鏡を用いた量子物性物理/教育物理
東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。日本物理学会 第10回若手奨励賞受賞。著書に『独楽の科学』(講談社ブルーバックス)。映画『TENET テネット』字幕科学監修、書籍『オッペンハイマー』(早川書房)監訳。
SF映画の描写を物理学者はどう見ているのか
SF映画を観ていると、ふと細部が気になることがあります。宇宙空間で鳴り響く爆発音、巻き戻る時間、場面によって都合よく働く重力。物理に詳しい人ほど、そんな“ズレ”を指摘したくなる——と思いがちです。
ところが山崎先生によれば、多くの観客はそもそも科学的なズレに気づかずに観ているといいます。「あのシーンは嘘っぽい」と口にするのは、知識のある一部の人。そして物理学者は、意外にもその側には立たないのだそうです。
「サイエンスフィクションって書いてあるから、サイエンスは本当でも、サイエンスフィクションは、極論言っちゃえば全て嘘なわけですね。物理学者がSF映画を見て、あのシーンがおかしい、このシーンがおかしいという風に言う人は、ほとんどいないですね」(山崎先生)
つまり、「おかしい」ことは批判の材料ではなく、SFを見るうえでの出発点です。では、専門家はその先に何を見ているのでしょうか。
「むしろ、このシーンはきっと物理のあの部分をアート化したんだな、映像化したんだな、物理のあのシーンをうまくチョイスして使って、表現してくれたんだなっていう喜びのほうがはるかに大きいです。だから否定的に見るのではなくて、物理のあんなものを使ってくれてありがとうという肯定的な感謝で見ているというような感じですね」(山崎先生)
これは「SFだから何でもいい」という話ではありません。フィクションであることを受け入れたうえで、現実の物理のどこを切り取り、どう映像へ翻訳したのかを見る。山崎先生の視線は、正誤判定よりも“使い方”に向いていました。
さらに先生は、SFを「いまはフィクションでも、20年後、30年後には現実になりうるもの」としても見ています。
「『月世界旅行』という作品は、世界で初めてのSFが100年くらい前に出ましたけど、当時は月に行くなんていうのは完全フィクションでした。……それが30年後、40年後、50年後に、アポロ計画みたいなやつで現実になった」(山崎先生)
SFは未来を想像するだけでなく、その時代の不安や欲望を映す鏡でもある、と先生は話します。冷戦期には侵略者、1980年代にはロボット、そして現在はAIが、繰り返し脅威として描かれてきました。映し出されているのは「いま何が事実か」だけではなく、「その時代が何を望み、何を恐れているのか」だという見方です。
では、物理学者が思わず「見事だ」と感じる描写とはどんなものなのでしょうか。先生が最初に挙げたのは、『2001年宇宙の旅』でした。
「無重力のシーンとかが、60年前とは思えないぐらいうまく表現されている。あと、なんといっても音がほとんど鳴らない真空の演出が見事で」(山崎先生)
SFでは、迫力を出すために視覚だけでなく音も大きく演出されがちです。だからこそ、あえて“鳴らさない”という引き算が、物理を知る人には強いリアリティとして届くのでしょう。
そして話がノーラン作品に及ぶと、先生の評価はもう一段熱を帯びました。物理を小道具や味つけにとどめず、物語そのものの背骨に据えているからです。
「ノーラン監督の作品は、物理のコアな部分を映画化してくれるんです。舞台が宇宙なだけで内容は西部劇、みたいなのとは違う。ブラックホール、ワームホール、5次元、重力。そういうのをちょっと出すんじゃなくて、物語のメインストーリーに据えるんですね」(山崎先生)
クリストファー・ノーラン監督とは
『メメント』『ダークナイト』三部作、『インセプション』『インターステラー』『ダンケルク』『TENET テネット』『オッペンハイマー』などを手がけた映画監督。CGに頼らず、できるかぎり実物を撮影することで知られる。

では、ノーラン作品はなぜ、物理を知っている人ほど面白くなるのでしょうか。鍵は、「嘘」と「本当」を切り離すのではなく、別の層として重ねていることにありました。作品が決めたルールはフィクションでも、そのルールを画面上で成立させるために使われる物理は、現実の知識で確かめられます。
ありえない設定の足元を、実在する物理が支える。ノーラン作品の“リアル”は、この二層がぴたりと重なるところから生まれているのかもしれません。ここからは、その仕組みを二つの作品で具体的に見ていきます。
『インセプション』のコマは絶妙な挙動をしている
『インセプション』とは
2010年公開。他人の夢のなかへ入り込み、アイデアを盗んだり、逆に植えつけたりする技術が存在する世界を描く。夢が深い階層へ進むほど時間の流れが変わるなど、現実と夢の境界を揺さぶる仕掛けが物語の骨格になっている。
『インセプション』で主人公が肌身離さず持ち歩くのが、手のひらに収まる小さなコマです。いまいる場所が現実なのか、それとも誰かの夢のなかなのか。確かめる方法は、コマを回すこと。倒れれば現実、いつまでも回り続ければ夢——というルールです。
そして、映画を観た人の記憶に最も強く残ったのがラストシーンのコマでしょう。しばらく回ったあと、わずかに軸が揺れ、倒れそうで倒れない。答えが出る直前で、画面は暗転します。
あの、観客を焦らすような動きはどこから生まれるのでしょうか。山崎先生が真っ先に注目したのは、コマの軸の先端でした。
「コマが唯一世界と触れられる場所が先端なんですね。だから先端は死ぬほど重要でして。接地面がコマの運命を決めると言っても過言ではないです」(山崎先生)
作中に登場するコマは、その先端が尖っておらず、丸みを帯びています。

先端が尖ったコマでは、軸が円を描くように振れる「歳差運動」が目立ち、時間をかけて少しずつ倒れていきます。一方、先端が丸いコマは回転が遅くなると、倒れかけたり再び立ち上がったりを不安定に繰り返します。あの“危うさ”を画面に出しやすい形なのです。
歳差運動とは
回転する物体の軸が、円を描くように向きを変え続ける運動。傾いたコマがすぐには倒れず、軸を振りながら回っているときに見られる。

つまり、ラストシーンで観客の息を止めていたのは、物語上の謎だけではありません。丸い先端が生む「倒れかけては立ち直る」という運動そのものが、夢とも現実とも言い切れない状態を目に見える形にしていたのです。幕切れの緊張感は、わずか数ミリの形状にも支えられていました。
「永遠に回るコマ」は、現実にありえる!?
夢のなかでは、コマは永遠に回り続けます。現実ではありえない——そう片づけたくなりますが、山崎先生の説明は逆の方向へ進みました。そもそも、現実のコマはなぜ止まるのでしょうか。
「回っている最中のコマは、たった2つのものにしか触れないんですよ。地面と、空気です」(山崎先生)
コマの回転を奪うのは、地面との摩擦と空気抵抗です。普通のコマが数分で止まるのは、この二つにエネルギーを渡し続けるから。逆に言えば、そのどちらもなければ、回転を止める相手もいません。
では、そんな環境は現実に存在するのでしょうか。先生の答えは「ある」。しかも、私たちは毎日それを目にしているといいます。
「実は、真空中で、空気のないところで永遠に回っているコマを、誰でも知ってるんですよ。我々の足元にある地球です」(山崎先生)
地球は大気に包まれていますが、その外側は真空で、回転する地球が接している“地面”もありません。だから自転は続きます。山崎先生はさらに、宇宙にあるものは基本的に回転しており、空気と地面のある地上の物体のほうが、むしろ回転を失いやすいのだと説明しました。
とはいえ、宇宙なら回転速度がまったく変わらないわけではありません。ここでも先生は、身近な天体を例に挙げました。
「月って、ずっと同じ面しか見えないのは、自転のスピードと公転のスピードが一致してるからなんです。それは偶然ではなくて、そうなるようにちょっとずつ重力がかかった結果だと言われてますね」(山崎先生)
海の満ち引きを生むのと同じ重力の作用が、長い時間をかけて月の自転にブレーキをかけ、自転と公転の周期をそろえました。同じ面がいつも地球を向くのは偶然ではなく、そうなるまでの物理的な過程がある、という説明です。
「夢のなかでは永遠に回る」は、作品が決めたフィクションのルールです。けれども、「空気も地面もなければ回転は失われにくい」という土台は現実の物理にある。ありえない設定のすぐ隣に、確かめられる事実が置かれている——ノーラン作品の“リアル”は、こうした接点から立ち上がります。
「1時間が7年」の星は、本当に実在できるのか
『インターステラー』とは
2014年公開。作物が育ちにくくなった地球を離れ、人類が移住できる星を探して宇宙へ向かう物語。ワームホールや巨大ブラックホールを背景ではなく物語の中心に置き、重力によって時間の進み方が変わるという物理現象を、そのまま家族のドラマへ結びつけている。
科学顧問は理論物理学者のキップ・ソーン。ブラックホールの描画のために開発された計算手法は、のちに査読つきの学術論文として発表されている。
物語には、巨大ブラックホール「ガルガンチュア」のすぐそばを回る惑星が登場します。そこでは1時間滞在するあいだに、地球では7年が経過する。調査から戻った宇宙飛行士を、20年以上年を重ねた仲間が待っている——時間差そのものがドラマを動かす設定です。
日常感覚からすれば途方もない設定ですが、こうした惑星は理論上ありえるのでしょうか。山崎先生の答えは、驚くほど短いものでした。
「ありえます」(山崎先生)
その一言に続いて、なぜ時間にそれほど大きな差が生まれるのか、一般相対性理論から説明してくれました。
「ガルガンチュアの周辺は非常に巨大な重力が発生し、いわば重力の壺のようなものです。一般相対性理論によると、この重力の壺の下にあるほど時間の流れが遅くなります」(山崎先生)
山崎先生の「重力の壺」という比喩で考えると、壺の底にあたるブラックホールへ近づくほど時間の進み方は遅くなります。宇宙船が周回する遠い場所では地球に近い速さで時間が流れ、問題の惑星は壺のかなり深い位置を回っている。そこで生じる極端な時間の進む速さの差が、「1時間=地球の7年」という設定を支えています。
重力による時間の遅れとは
一般相対性理論では、重力が強い場所ほど時間の進み方が遅くなる。非常に重い天体の近くと、そこから十分離れた場所とでは、同じだけ経っても経過する時間が一致しない。

「時間の遅れという意味では、このような星は実在できます」(山崎先生)
重要なのは、先生の「実在できます」という答えに「時間の遅れという意味では」という限定が付いていることです。では、その“時間の遅れ”自体は、映画のなかだけの現象なのでしょうか。
重力の違いによって時間の進み方が変わることは、すでに実測されています。上空を飛ぶGPS衛星は地上より重力が弱く、重力の効果だけを見れば、搭載時計は地上の時計よりわずかに速く進みます。この差を補正しなければ測位は少しずつずれていく。スマートフォンの地図が現在地を示せる背景にも、相対論の補正があります。
ガルガンチュアの近くで起きているのは、この時間差を桁違いに大きくしたものだと考えられます。「1時間」と「7年」という隔たりは異様でも、根にある原理は、私たちが日常的に利用している技術と地続きです。
「ありえます」というわずか五文字の答えの下には、こうして現実に確かめられる物理が何層も積み重なっていました。映画が見せたのは、その積み重ねを極限まで押し広げた先の風景だったのです。

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→「『TENET』の逆行概念と『オッペンハイマー』から学べる科学の進化に迫る〜ノーラン作品字幕科学監修の物理学者に聞いてみた〜」
ノーラン作品を観たあとに残る「あれ、本当にありえるの?」という引っかかりは、調べるほど面白くなります。追いかけた先で、しばしば本物の物理に行き着くからです。
夢のなかで回り続けるコマも、1時間が7年になる惑星も、そのまま日常に持ち込める現象ではありません。それでも観客が身を乗り出してしまうのは、荒唐無稽なアイデアが、確かな物理の足場の上に置かれているからでしょう。
SFのリアリティは、現実そのものに近づけるだけでは生まれない。どこをフィクションにし、どこに本物の物理を置くか。その境界の設計こそが、ノーラン作品を“ありえそう”に見せているのかもしれません。
2026年8月24日取材
撮影:編集部



